溶存する

僕が普段感じたことや考えたことを、つたない日本語を駆使して必死に伝えようとするため、自分自身に残しておくために文章を書いています。

ナチュラリズムが見失う理性

社会に生きる上で我々はどうしても本能に制約される。生存権、その他あらゆる権利の主張の多くは本能を基にしていると言える。その上で複雑難解化した社会には他に様々な理性によって加えられた制約が存在している。もっともここでは理性とは本能の対極に置くのではなく、知性によって産み出されたもののに対する本能に準じたものとする。例えば、人間は知性によって大量破壊兵器を作り出し、本能がその危険性を察知し、理性としてそれを制限する。本能が制約できる範囲はあくまでも所有権や生存権といった基本的な生命維持のための権利である(ここで所有権を取り出したのは僕の考察の甘さがあるが、深く掘り下げずにそういうことにしておく。)。理性はその基本的な権利に絡みついた、複雑な様々な文明の副産物を制約するための道具である。その複雑性ゆえに、我々はもはや本能だけで制御することができないからだ。先に取り出したように「そういうことにしておく。」と言ったほどに、半ば定言命法の如く制約するのだ。

 

この理性であるが、定言命法の如く存在しているため、時にその信頼が大きく揺らぐことがある。それは漠然と迫った危機の瞬間である。人は特に不可解な行動を取るが、その不可解の原因は我々がもはや本能を無意識化に抑え込み、理性によって生かされているからである。自身の直接的な命の危機ではないのにも関わらず、人は轢き逃げをする。理性の暴走である。人を救助しなければならない、社会的制約を受容することができない。本能によってもたらされる基本的な権利を無視しているようにも思われるが、基本的な権利の主張のために複雑化した諸問題を取り払うために瞬間的に理性は暴走する。理性の暴走には各人に対して差があることは衆目によって明らかなことである。しかし、誤差の範囲として区別するには、あまりにも人間は強大な理性の制限を受けているために、人類存続の危機に直結しかねないのである。

 

さて、そんな危機を我々は言語化せずとも、スキーマの断片として日々感じ取っている。他国に対する不信感(ここで他国という言葉を使う前提をも書きたかったが考察不足)や危機感。それは本能的な生命維持の権利にまで訴えかけ、自衛のために人々は、自身のための行政に対して防御を求める。それがいかなる形で顕現するかは、愛国主義であったり、国粋主義だったりするわけであるが、そこに対する差は本稿では取り扱わない。しかし、一国の行き先を本能に委ねるわけにはいかないので、人々は理性を通してこれを行おうとする。冒頭で触れたように理性とは複雑化された諸課題を処理するための本能の道具であるので、先に述べた理性の暴走がいつ起こってもなんら疑問に思うことはないのだ。

 

北の国では自衛のためか、それともまた別の本能の基づいた権利のためにか連日のように理性の暴走が見られる。一国という制限を失うのは非常に難しいことであるが、我々は時代と共に理性との付き合い方をもう少し上手いことした方が良さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁアメリカとソ連が作り出した国なんですけどね、のーすこりあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘い考察もあったので、そのうち追記します。

進歩主義の終わり

更新のために短い記事を書きました。

次回の記事は、読んだ小説の話でもしたいな。

 

 

 

 

 

テレビのニュースなんかを見ていると、頻繁に聞く文句があった。その文句に対して、初めて聞いた時も、そして今現在もどこか世界の現状を端的に表しているんじゃないかと思わされてしまう。もちろんテレビのコメンテーターなんて、本当に言いたいことは言えないだろうから、衆愚に向けた言葉なのか、それとも何かの圧力が掛かってるのかは僕の知るところではないが、今回はその文句について取り上げてみようと思う。

 

その文句について、具体的にどんな言葉を用いてたかは覚えていないが、要約すると「アメリカが自国のことで手一杯になってほしくない。」みたいなそんな言葉である。もちろん、学の足りない僕は日本のニュースしか見ていないので、戦後アメリカの属国として存在し続けたこの国独自の言葉なのか、それとも他の国々でも同じように取り上げてるかはわからない。けれども、アメリカがそうしてることに対して、先ほどの文句を取り出したのは、あまりにもこの国の危機感の無さ、いや、もしかしたら意識的か無意識的かはわからないけれど、危機感を無視しようと努めてる雰囲気を僕は感じたのだ。

 

ただ、これからの話は僕がよくするようなグローバル化なんて嘘だよなんて話に繋がるので割愛する。

 

ただ生きてるだけで、GHQに統治されていたこの国、戦後70年経った今も敗戦国であり続けていることを思い出され、どこか憂鬱になっただけ、そんな話である。

センター試験前のメンタル

こんばんは。

年末をみなさんどのようにお過ごしでしょうか?

僕はやることが一気に襲ってきて毎日ずっと寝てます、終わらないです。

 

 

いよいよ2016年も終わりに近づき、受験生にとっては僕のトラウマであるセンター試験が近づいてきましたね、頑張って下さい。

 

センター試験前の僕のメンタルがいろいろと今考えると面白かったのでそれについていろいろと書いてみようと思います。

浪人生活は常にメンタルはクソでしたが、それなりの成績だったので全国2000位くらいだった時は、頭も悪く勉強の苦手だった僕からしたらわーい^^って感じで、楽しくはないけどそれなりにそれなりだな・・・^^;って感じで生きてました。

 

 

しかし、センター試験が近づくにつれて去年度のことを思い出して幼児退化していきました。毎日人妻の母乳を吸い、ママ〜;;と街で駆け回る、完全に職質コースの人間ですね、怪しいセラピーだの勉強会だの宗教だのの勧誘も五万と受けてきました。どれにも行ってませんが。

 

センタープレはまぁ、普段よりは良くなかったですけれども、”まぁまぁ”な成績で一度は若干の落ち着きを取り戻したのですが(数学で9割切って吐きそうになったことだけ覚えてるあとなんかの科目で初めて満点を取ってた)、やはりメンタル弱者、四日経つともうどうしようもなくなってしまいました。毎日号泣し、暗記科目を音読して、ニコニコ動画でホモビデオをタグ検索して夜中に爆笑する。完全にヤバい人ですね。センター前日も一睡もできず、ママ〜;;ってお家で叫んでました。あの頃の録音やら録画やらが残ってないおかげで、僕はこうして今生きていられるわけですが・・・

 

まぁ、英語筆記でやらかしたり、数学でやらかしたりとなんだかハチャメチャな成績を取ってしまい、予備校の担任の先生から「これマジ?模試に比べて本番貧弱すぎんだろ・・・」と言われたり。なんだか全てがどうでもよくなっていました。

 

あとはなんかメンタルって外見に出るもんですね、同じ会場で受けていた知り合いに「あいつは本番中ずっとフードをかぶって受験していた」というでたらめを高校で流されてたのを大学受験後耳にして大爆笑しました。

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もちろん二次試験の勉強なんかもしていません、受けた大学の赤本一度も開きませんでした。

 

モンハンクロスがなんか12月くらいに出てましたよね?

それを買いに行ってハンターランクを上げてました。

 

 

モンスターハンタークロス  - 3DS

モンスターハンタークロス - 3DS

 

 

 

昼過ぎに起きて、川に行き、釣りしてるおっさんと会話して、ランニングしてる人々を横目で追いながら、飛び立つ鳥を見て「寒そ〜^^」とぼっそとつぶやき、近くにいる鳩を思っきし脅かしに行って一通り外で遊んだ後、お家に帰ってモンハンクロスをして、ニコニコ動画を見て、寝る。

 

 

 

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとそうして過ごしてました、どこも大学受からなかったらこうして一生暮らそうと考えてました。

 

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まぁそんな僕でも何個か大学受かりましたし、今もなんとか生きてられているので、この記事を読んでくれている大学受験生がいれば、僕を下に見て心の余裕にしてくれればなぁ・・・なんて、そんな奴はこんな記事見ないよなぁ・・・

 

 

 

モンハンダブルクロスが3月終盤に発売なので、僕と同じようなことは今年の受験生はできないんですね、かわいそう。ポケモンでもしてなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はムーンです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ、大学受験なんて本人以外からしたらただの人生の通過点でしかないので、あんまり気負いすぎず(難しいけど)、頑張ってくださいね。 

エネルギー

人にはやっぱりエネルギーがあって。それをどこに向けるかは人それぞれだけれど、有り余るエネルギーを上手いこと使えないかと日々考えていた。考えを実行に移してる段階なのだが、どうやら人はあるエネルギーに対して外部に向けたがらない人も多いらしい。内向的か外向的かという二項対立で済むような話ではなくて、根幹として自身が世界の一部か、世界が自分の一部かという当事者意識の差がそうさせてるんじゃないかとしみじみと感じた。

 

その前者後者に、自身の世界の広狭はあんまり関係がなさそうだし、自身についてどれだけ中心的になれるかが差なんじゃないかと人の話を聞いてて思った。後者に対しては僕も同じような人間であるし、余るエネルギーを外に向けることはわりと簡単にできつつあるが、前者に対しては非常に難儀している。彼らにとって、或る世界は自身の生の場所でしかなくて、生を包み込むようなスケール感を与えてくれるようなものじゃないのかもしれない。

 

わからない。受け入れ難いわけではない。ただわからない。理解不能とまではいかないが、僕は自分より世界が好きだ。この世界が好き。戦争があって、貧困があって、平和があって、既得権益があって、無駄がありすぎるこの世界が好き。余白的な世界を見つけるのも好きだし、詰め込まれた世界に一石を投じてみるのも楽しい。前者後者の間の違いがどこなのか、人生経験が薄くて僕にはわからない。

 

僕はより民衆的で、彼らはより貴族的なのだろうか?

 

 

 

 

わからんちんぽ

国内

夏休みを利用して5日ほど東北地方にいたのですが、そこで思ったことを書こう書こうと思っていました。悩みに悩んだ末に書けなくなってしまい、よーし書くぞ!と思い立ち今、書いています。

 

 

 

かからさらに3ヶ月経ちました^^;

 

生まれた時から都会と呼ばれるような地域に住んでいまして、地方、田舎という地にある程度の憧れを僕は持っていました。

 

田舎で生まれ育った人間の話を聞いてみると、彼らには都会に対する羨望があるようで、もう2度とあんな田舎で住みたくないという人もいます。都会に住む人間にはやはり、休暇は田舎で過ごしたいよなぁ!?と言ったことをつぶやく人も少なくないように思えます。

 

ここで明らかになってるのは、都会に住む人間には「住みたくはないけれど、田舎にはある種の憧れに近い念を持っている。」のに対して、田舎に住む人間には「都会に住みたい、都会すごい。」といった、抱く対象こそ対照的でありますが、抱く感情は別個のものとなってます。

 

田舎からしてみれば、都会に置き去りにされている、取り残されている(それは経済的にも、政治的にも)という考えが強いみたいで、戦後に都市に働きに出たり、列島改造論でなんやかんやされたりと(説明がめんどくさいので調べてください、ごめんなさい。時間があれば僕なりの解釈を書こうと思います。また今度。)経済主体から外された!という思いがやはりあるのでしょう。

 

 

 

さぁさて、平成に生まれ、失われたうん10年の後、オウムの事件、災害の訪れた後の時代に生まれ落ち、産んだ両親は憧れとしててできた都会に住み、その地で僕を生んだ。僕の田舎への想いをまずはつらつら書こうと思います。

 

 

 

 

先ほど、田舎は都会に置き去りにされたような感覚を抱いてると書きましたが、僕は逆に田舎に何か置いてきたままにしてしまったんじゃないかという気持ちがとても強いのであります。

その何かの正体こそ、僕の、延いては僕らの田舎への憧れの本質なんじゃないかと思います。

 

"その何か"とは、"伝統的なこの国のあり方"であると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とまぁこれが過去。

今これを振り返る心の余裕というか、尺度も変わったし。書くのが難しい。とりあえず公開。年内にきちんとしたの書きます。じゃあな!

 

 

政治の話が嫌いなのは

 

政治の話はできなければいけないと思うけど、あまり、積極的に話すような話題にしてはいけないと思う。

政治と宗教の話はするなと言うが、これはすごくいい言葉だと思う。最近なら家族構成もあんまり聞かないほうがいい気もするけど。

 

政治の話って、結局不満しか出てこなくて、代案を出せないし、実行できないんですね。超有名な知識人の人なんかも、なんで代案を出せと言うんだみたいな姿勢ですし、彼らにとって政治の話ってのは厭世を拗らせた様にしか僕には見えません。

 

もっとこう、楽しい話を僕はしたいですね。

する相手もいないんですけども。

 

政治以前に、僕らは生きている人なんだから、必死に生活する必要があって、そこで他に話したいこととか、それに必要な政治の話とかはあるけど、普段から政治の話を触れることはあんまりない。政治の話を普段からよくする人はそういう人を心底馬鹿にするし、しない人は苦手だな〜〜〜〜と思っている。

政治の話は理解できなくちゃいけないとは思うけど、積極的に嬉々として話すことではないと思いました。

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映画とか、音楽とか、食べ物とか、好きな本とか、そんな話を、僕はしてたいな。