溶存する

僕が普段感じたことや考えたことを、つたない日本語を駆使して必死に伝えようとするため、自分自身に残しておくために文章を書いています。

受動的取捨選択の時代

気付けば今年も終わりそうで、2017年ってなんか数字が気持ち悪いなと正月に友人宅でデリヘルを呼ぶか否かで悩みながら話していたことを思い出します。2018年に突入してしまえば、どこかその偶数のスッキリと心に入ってくるのかま、オッドナンバーな現在に多少の寂しさや懐かしさを感じてしまいそうではありますけれども。

 

西暦という数字は、もちろん僕たちが能動的に決めた数字ではありません。キリスト教によって死ぬまで、ある程度の文化圏にいる限りにおいては常に傍受されてしまう情報です。そこには善悪も快不快も、分断された二項対立が立ち入る隙もないくらいには僕らの当たり前として顕現されています。一方でこの国には元号がありますが、そちらは半世紀に一度くらいには変わってしまいますので、当たり前の領域にまでは事実として側にはいません。行政手続きやなんやらをあまり経験しない子供達にとって、自分の生まれた元号は毎回調べるものであっても特に疑問は持ちません。もちろん大人の私たちにとってそれは確たる常識ではあります。

 

西暦と元号の当たり前という認識の違いは、自身がその情報をどう取り扱っているかに向かって行くものだと考えています。そして、ユビキタス社会な現状がそう感じさせていないのもまた一つの問題です。

 

情報ソースというものについて、過去では新聞やテレビといった、そういった与えられる媒体から常に手に入れていました。僕はそのような時代では15年ほどしか過ごしていませんでしたが、現在と過去を比べてみると圧倒的に現在は利便性に溢れています。天気一つとっても、ズームインで見た天気予報を1日1週間頭に入れておく必要はなく、スマートフォンでその場でパッと調べられます。具体例を挙げているとキリがないのですが、こうした不変の事実(天気やある程度のニュース)においてはスマートフォンの利便性は我々の生活の当たり前へとなっています。一方で、何を調べて何を見て何を考えるかという点については、我々はあまりにも突き放されてるように感じます。こんなことは小学生でも重々承知でしょうけれど、インターネットによる情報収集からの自身の望んだ世界の形成を意識的に改善して行くのは、非常に難しいです。そしてそれを悪としてしまうのもどこかお門違いのような感じもします。インターネットだけの情報で生きるなというのは、それはもちろん誤った情報に踊らされるなという意味を孕んでいるんでしょうが、僕はそれに対してそこまでネガティブなイマージュを持てません。個々人の形成したいマクロな世界の中で生きていくほうがよっぽど健康的だと思います。情報過多のこの世界で、真偽を見極め、世界という大局の元で日々を生き抜くのは非常に困難な生き方であるように感じます。

 

だからといって、自身の世界が全体であるという意識を無意識的にでも押し出してはならないのです。それは他方で望まれなかった世界でもありますから。そして受け取る我々もそういった情報はなるべくシャットアウトして生きた方がよっぽど健全です。

 

やれ最近では、インスタ映えやら、いいね!のための承認欲求やらが謳われておりますけれど、他者性の中に自己を見つめてしまうから、自身の中に似たような欲求があり、それを上手いこと表象できないからこそSNSにおいて他者を叩いてしまうように感じられます。

 

情報の発信も受信も、分別を付けてきちんと行い、最適化された世界、コミュニティの中で生きてゆくことを世界中で望まれてるようにも感じます。ナショナリズムなんかがその最たる例です。グローバル化の社会だ!なんて言いながらも、経済的な取引の規模が広がっただけで、経済活動をしょっぴいた一個人としての生の中には世界は我々人間にはまだあまりにも広すぎるのです。目下スペインでも国境が増えようとしています。

 

冒頭のデリヘルを呼ぼうか悩んでいたなんて極小コミュニティの話題であって、それを面白いと思って読んでいた人間なんて僕の周囲の人間しかいないでしょう。我々はそうした狭い世界の中で、自身を管理できる世界の中で、望んだ世界を形成することのできるこのデバイスとともに明るい明日を切り開いていくことが一番の小さな市民である我々の平和に繋がるのだと思います。

 

 

 

もちろんそうは言ってられない世界も多数あるかと思いますが、そんなものはトップクラスの政治家や資産家にしか当てはまらないことです。そういった人たちを叩くのは本当に愚かなことです。彼らは僕らの知らない世界で、同時多発的な心理的テロリズムを常に対処しなければならないところで生きているのだから。無関心でいろとは言いませんが、「大変ですね」くらいの心情で接するくらいがちょうどいいです。それでも気に入らないことがあるのならば、あなた自身がその世界に飛び込んでいて欲しいです。これもまた僕の小さな世界から、寛容のない人間への自身の寛容のなさですね。閉じたコミュニティは小さな火種を撒きますが、何一つ害を撒き散らかさないのであれば、僕はそうして小競り合いを続けながら、狭小なムラで僕とその大切な人々の幸せを願いながら生きて生きます。

サルトルは陽キャ

実存主義と聞いて大概の人は「サルトル?」と答えると予想されるのですけれど、サルトルは陽キャだという話をしようと思います。

 

 

まぁ簡単に言ったら

 

「人生に一般な意味なんてないしみんな人生で作り上げてこうな✋」って感じなんです。(即自だの対自だのは話すと長くなるので嫌です。)

 

 

 

 

いやいやいや???

ガチ陽キャやんw

 

 

 

やばすぎませんか?

生きる意味についてうじうじ悩んだって疎外されてしんどいよってまぁそりゃそうやって話なんですけれど、それに対して

 

やっちゃいましょか?w

みたいな対応、やばすぎる。

 

無理じゃない?????

 

 

まぁ言わんとすることは分かるんですけどね、彼の嘔吐とか読んでみたらこの結論に至ったのも彼にも色々あったと推測できますけれど、この結論はなんか、生き急ぎすぎてる。

 

もっとニヒリズムなのがいいよぉ、、、

って陰キャクソダサボーイ(コーナーで差をつけられて走り方を笑われろ)は思うわけなんですよ。

 

 

 

そんな僕ら陰キャにおすすめの実存主義者は〜〜〜〜?????

実存主義者は〜〜〜〜〜〜?????

実存主義者は〜〜〜〜〜?????????????

 

 

 

 

 

ニーチェですね。

ニーチェといえば神は死んだだの、永劫回帰なんかで皆さんご存知だと思うのですが、力への意思というより、超人という概念を作り出した過程がもうガチ陰キャですごく親近感湧くんですよね。

 

 

哲学思想なんて現実逃避にすぎない(心当たりのある人のが多いでしょ)

人生楽しめるのは幼児の精神(人間はこれを目指すべきw)がいるよ(この発想マジ陰キャ)

疲れた精神は活力を求めるために生きる目標だの意味を求める(あぁ、、、もう、、、)

 

 

 

 

これ

 

これ

 

 

これ

 

 

陰キャが陽キャにあいつらは未熟だのガキだのアホだの言ってるのとめっちゃかぶるやーんwwwwwww

 

 

 

 

 

如何だったでしょうか、かれくさによる超テキトーざっくり哲学解説講座でした。

現代思想家以外で知りたい哲学者思想家がいれば一報入れてくれるとありがたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次はオルテガでも話そうかしら

 

 

ナチュラリズムが見失う理性

社会に生きる上で我々はどうしても本能に制約される。生存権、その他あらゆる権利の主張の多くは本能を基にしていると言える。その上で複雑難解化した社会には他に様々な理性によって加えられた制約が存在している。もっともここでは理性とは本能の対極に置くのではなく、知性によって産み出されたもののに対する本能に準じたものとする。例えば、人間は知性によって大量破壊兵器を作り出し、本能がその危険性を察知し、理性としてそれを制限する。本能が制約できる範囲はあくまでも所有権や生存権といった基本的な生命維持のための権利である(ここで所有権を取り出したのは僕の考察の甘さがあるが、深く掘り下げずにそういうことにしておく。)。理性はその基本的な権利に絡みついた、複雑な様々な文明の副産物を制約するための道具である。その複雑性ゆえに、我々はもはや本能だけで制御することができないからだ。先に取り出したように「そういうことにしておく。」と言ったほどに、半ば定言命法の如く制約するのだ。

 

この理性であるが、定言命法の如く存在しているため、時にその信頼が大きく揺らぐことがある。それは漠然と迫った危機の瞬間である。人は特に不可解な行動を取るが、その不可解の原因は我々がもはや本能を無意識化に抑え込み、理性によって生かされているからである。自身の直接的な命の危機ではないのにも関わらず、人は轢き逃げをする。理性の暴走である。人を救助しなければならない、社会的制約を受容することができない。本能によってもたらされる基本的な権利を無視しているようにも思われるが、基本的な権利の主張のために複雑化した諸問題を取り払うために瞬間的に理性は暴走する。理性の暴走には各人に対して差があることは衆目によって明らかなことである。しかし、誤差の範囲として区別するには、あまりにも人間は強大な理性の制限を受けているために、人類存続の危機に直結しかねないのである。

 

さて、そんな危機を我々は言語化せずとも、スキーマの断片として日々感じ取っている。他国に対する不信感(ここで他国という言葉を使う前提をも書きたかったが考察不足)や危機感。それは本能的な生命維持の権利にまで訴えかけ、自衛のために人々は、自身のための行政に対して防御を求める。それがいかなる形で顕現するかは、愛国主義であったり、国粋主義だったりするわけであるが、そこに対する差は本稿では取り扱わない。しかし、一国の行き先を本能に委ねるわけにはいかないので、人々は理性を通してこれを行おうとする。冒頭で触れたように理性とは複雑化された諸課題を処理するための本能の道具であるので、先に述べた理性の暴走がいつ起こってもなんら疑問に思うことはないのだ。

 

北の国では自衛のためか、それともまた別の本能の基づいた権利のためにか連日のように理性の暴走が見られる。一国という制限を失うのは非常に難しいことであるが、我々は時代と共に理性との付き合い方をもう少し上手いことした方が良さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁアメリカとソ連が作り出した国なんですけどね、のーすこりあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘い考察もあったので、そのうち追記します。

進歩主義の終わり

更新のために短い記事を書きました。

次回の記事は、読んだ小説の話でもしたいな。

 

 

 

 

 

テレビのニュースなんかを見ていると、頻繁に聞く文句があった。その文句に対して、初めて聞いた時も、そして今現在もどこか世界の現状を端的に表しているんじゃないかと思わされてしまう。もちろんテレビのコメンテーターなんて、本当に言いたいことは言えないだろうから、衆愚に向けた言葉なのか、それとも何かの圧力が掛かってるのかは僕の知るところではないが、今回はその文句について取り上げてみようと思う。

 

その文句について、具体的にどんな言葉を用いてたかは覚えていないが、要約すると「アメリカが自国のことで手一杯になってほしくない。」みたいなそんな言葉である。もちろん、学の足りない僕は日本のニュースしか見ていないので、戦後アメリカの属国として存在し続けたこの国独自の言葉なのか、それとも他の国々でも同じように取り上げてるかはわからない。けれども、アメリカがそうしてることに対して、先ほどの文句を取り出したのは、あまりにもこの国の危機感の無さ、いや、もしかしたら意識的か無意識的かはわからないけれど、危機感を無視しようと努めてる雰囲気を僕は感じたのだ。

 

ただ、これからの話は僕がよくするようなグローバル化なんて嘘だよなんて話に繋がるので割愛する。

 

ただ生きてるだけで、GHQに統治されていたこの国、戦後70年経った今も敗戦国であり続けていることを思い出され、どこか憂鬱になっただけ、そんな話である。

センター試験前のメンタル

こんばんは。

年末をみなさんどのようにお過ごしでしょうか?

僕はやることが一気に襲ってきて毎日ずっと寝てます、終わらないです。

 

 

いよいよ2016年も終わりに近づき、受験生にとっては僕のトラウマであるセンター試験が近づいてきましたね、頑張って下さい。

 

センター試験前の僕のメンタルがいろいろと今考えると面白かったのでそれについていろいろと書いてみようと思います。

浪人生活は常にメンタルはクソでしたが、それなりの成績だったので全国2000位くらいだった時は、頭も悪く勉強の苦手だった僕からしたらわーい^^って感じで、楽しくはないけどそれなりにそれなりだな・・・^^;って感じで生きてました。

 

 

しかし、センター試験が近づくにつれて去年度のことを思い出して幼児退化していきました。毎日人妻の母乳を吸い、ママ〜;;と街で駆け回る、完全に職質コースの人間ですね、怪しいセラピーだの勉強会だの宗教だのの勧誘も五万と受けてきました。どれにも行ってませんが。

 

センタープレはまぁ、普段よりは良くなかったですけれども、”まぁまぁ”な成績で一度は若干の落ち着きを取り戻したのですが(数学で9割切って吐きそうになったことだけ覚えてるあとなんかの科目で初めて満点を取ってた)、やはりメンタル弱者、四日経つともうどうしようもなくなってしまいました。毎日号泣し、暗記科目を音読して、ニコニコ動画でホモビデオをタグ検索して夜中に爆笑する。完全にヤバい人ですね。センター前日も一睡もできず、ママ〜;;ってお家で叫んでました。あの頃の録音やら録画やらが残ってないおかげで、僕はこうして今生きていられるわけですが・・・

 

まぁ、英語筆記でやらかしたり、数学でやらかしたりとなんだかハチャメチャな成績を取ってしまい、予備校の担任の先生から「これマジ?模試に比べて本番貧弱すぎんだろ・・・」と言われたり。なんだか全てがどうでもよくなっていました。

 

あとはなんかメンタルって外見に出るもんですね、同じ会場で受けていた知り合いに「あいつは本番中ずっとフードをかぶって受験していた」というでたらめを高校で流されてたのを大学受験後耳にして大爆笑しました。

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もちろん二次試験の勉強なんかもしていません、受けた大学の赤本一度も開きませんでした。

 

モンハンクロスがなんか12月くらいに出てましたよね?

それを買いに行ってハンターランクを上げてました。

 

 

モンスターハンタークロス  - 3DS

モンスターハンタークロス - 3DS

 

 

 

昼過ぎに起きて、川に行き、釣りしてるおっさんと会話して、ランニングしてる人々を横目で追いながら、飛び立つ鳥を見て「寒そ〜^^」とぼっそとつぶやき、近くにいる鳩を思っきし脅かしに行って一通り外で遊んだ後、お家に帰ってモンハンクロスをして、ニコニコ動画を見て、寝る。

 

 

 

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとそうして過ごしてました、どこも大学受からなかったらこうして一生暮らそうと考えてました。

 

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まぁそんな僕でも何個か大学受かりましたし、今もなんとか生きてられているので、この記事を読んでくれている大学受験生がいれば、僕を下に見て心の余裕にしてくれればなぁ・・・なんて、そんな奴はこんな記事見ないよなぁ・・・

 

 

 

モンハンダブルクロスが3月終盤に発売なので、僕と同じようなことは今年の受験生はできないんですね、かわいそう。ポケモンでもしてなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はムーンです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ、大学受験なんて本人以外からしたらただの人生の通過点でしかないので、あんまり気負いすぎず(難しいけど)、頑張ってくださいね。 

エネルギー

人にはやっぱりエネルギーがあって。それをどこに向けるかは人それぞれだけれど、有り余るエネルギーを上手いこと使えないかと日々考えていた。考えを実行に移してる段階なのだが、どうやら人はあるエネルギーに対して外部に向けたがらない人も多いらしい。内向的か外向的かという二項対立で済むような話ではなくて、根幹として自身が世界の一部か、世界が自分の一部かという当事者意識の差がそうさせてるんじゃないかとしみじみと感じた。

 

その前者後者に、自身の世界の広狭はあんまり関係がなさそうだし、自身についてどれだけ中心的になれるかが差なんじゃないかと人の話を聞いてて思った。後者に対しては僕も同じような人間であるし、余るエネルギーを外に向けることはわりと簡単にできつつあるが、前者に対しては非常に難儀している。彼らにとって、或る世界は自身の生の場所でしかなくて、生を包み込むようなスケール感を与えてくれるようなものじゃないのかもしれない。

 

わからない。受け入れ難いわけではない。ただわからない。理解不能とまではいかないが、僕は自分より世界が好きだ。この世界が好き。戦争があって、貧困があって、平和があって、既得権益があって、無駄がありすぎるこの世界が好き。余白的な世界を見つけるのも好きだし、詰め込まれた世界に一石を投じてみるのも楽しい。前者後者の間の違いがどこなのか、人生経験が薄くて僕にはわからない。

 

僕はより民衆的で、彼らはより貴族的なのだろうか?

 

 

 

 

わからんちんぽ

国内

夏休みを利用して5日ほど東北地方にいたのですが、そこで思ったことを書こう書こうと思っていました。悩みに悩んだ末に書けなくなってしまい、よーし書くぞ!と思い立ち今、書いています。

 

 

 

かからさらに3ヶ月経ちました^^;

 

生まれた時から都会と呼ばれるような地域に住んでいまして、地方、田舎という地にある程度の憧れを僕は持っていました。

 

田舎で生まれ育った人間の話を聞いてみると、彼らには都会に対する羨望があるようで、もう2度とあんな田舎で住みたくないという人もいます。都会に住む人間にはやはり、休暇は田舎で過ごしたいよなぁ!?と言ったことをつぶやく人も少なくないように思えます。

 

ここで明らかになってるのは、都会に住む人間には「住みたくはないけれど、田舎にはある種の憧れに近い念を持っている。」のに対して、田舎に住む人間には「都会に住みたい、都会すごい。」といった、抱く対象こそ対照的でありますが、抱く感情は別個のものとなってます。

 

田舎からしてみれば、都会に置き去りにされている、取り残されている(それは経済的にも、政治的にも)という考えが強いみたいで、戦後に都市に働きに出たり、列島改造論でなんやかんやされたりと(説明がめんどくさいので調べてください、ごめんなさい。時間があれば僕なりの解釈を書こうと思います。また今度。)経済主体から外された!という思いがやはりあるのでしょう。

 

 

 

さぁさて、平成に生まれ、失われたうん10年の後、オウムの事件、災害の訪れた後の時代に生まれ落ち、産んだ両親は憧れとしててできた都会に住み、その地で僕を生んだ。僕の田舎への想いをまずはつらつら書こうと思います。

 

 

 

 

先ほど、田舎は都会に置き去りにされたような感覚を抱いてると書きましたが、僕は逆に田舎に何か置いてきたままにしてしまったんじゃないかという気持ちがとても強いのであります。

その何かの正体こそ、僕の、延いては僕らの田舎への憧れの本質なんじゃないかと思います。

 

"その何か"とは、"伝統的なこの国のあり方"であると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とまぁこれが過去。

今これを振り返る心の余裕というか、尺度も変わったし。書くのが難しい。とりあえず公開。年内にきちんとしたの書きます。じゃあな!