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溶存する

僕が普段感じたことや考えたことを、つたない日本語を駆使して必死に伝えようとするため、自分自身に残しておくために文章を書いています。

大学生という存在についての考察①

こんにちは

 
 
大学生という生き物についての考察をしていこうと思います。
僕は大学生と、あまりにも馴染むことができず、大学でも話し相手が教授くらいしかいないので、この現状を打破すべく、まずは大学生について知ろうと思い、聞き耳立てて色々大学生について考えてみました。
 
以下、大学生が僕とかけ離れた存在であることがいくつか判明したので、衝撃の発言三銃士を紹介していこうと思います。
 
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①自分の意見を言う奴は総じてクズ
 
 
僕は初めこれを耳にした時、どうにかなってしまうんじゃないかってくらい目眩がして、少し涙を浮かべてしまいました。
なんともまぁ、この思考に至るプロセスってのが、高校教育までの「与えられた問いに対して、ある確かな解が存在する。」ってとこにあるんじゃないでしょうか?
彼がどこまで本気でこの発言をしたかは分かりませんが、少なくともふざけた感じは無かったので、ある程度真剣に言っているのでしょう。
 
彼にとって、人の生というのは、自己主張なんてするものでなく、何かステレオタイプ的な生き方をすることそれ自体が正解ということなんでしょうか?
自分を押し殺し、周りに合わせる。
孤独になることはないが、自身が集団に属することを第一目的とした、不健全なコミュニケーション。そんな印象を受けてしまいます。
 
たしかに、そういう生き方は聡いと思いますが。果たしてそれは「幸福」と言えるのでしょうか?日本が戦後急速に近代化が進んだのも、こういったコミュニケーションのおかげで、集団の輪が中々崩れないところに原因があったのかもしれません。しかし、近代化という普遍性を持った目指すべき進歩をなくした我々はそのままでいいのでしょうか?
 
今後さらなる経済発展なんて、この国にほとんど期待できないはずなんです。彼がこのまま自己主張を嫌い、集団に属することを第一とする生き方ってのは、なにか脆さを感じてしまいます。閉鎖的といってしまうとネガティヴな表現のように聞こえますが、閉鎖的な閉じたコミュニティの中で確固たる自分自身を形成して、そこでは健全に生きられる、そんな風に生きた方が、人間らしいと思います。
 
 
 
さて、大学生のこの恐ろしい発言を踏まえて、他にもたくさん思うところがあるので書かせていただきます。
 
まず、僕は大学っていうのをどう過ごすべきなのかと考えた時、なによりもまず、「自己と社会を見つめ合い、自己のどの部分を社会で使っていくか、そして残りの部分を大切な自己として如何に扱えるかを検討すること」が大切だと思います。(まぁ、自己を社会に役立てていこうなんて考え方も嫌いですけども、経済というシステムが根付いてしまった現代ではそうしないと、よっぽど資産がない限り生存できなくなってしまうので渋々書きました。)
 
 
まず、前者ですけれど、これはある程度勉強すれば自ずと見えてくるし、示してくれるものなので、能動的にある程度動けば見えてくるものです。「社会への券売機」的な役割を担ってる大学でまともに過ごせばなんとなくはわかるはずです。(分かっていても、プライドや金銭面から間違った選択をするなんて往々にあるものなのですが。)
 
そして、後者なんですけれど、僕はこれ自己と孤独に向き合ってやるしかないと思います。孤独に向き合うのはとても怖いです。僕もよくそれが原因で鬱になったりしますが、やらなければいけないと思います。アイデンティティ形成ですね。まぁ、アイデンティティって言葉もあんまり好きじゃないです。自己同一性なんて言われますが、どの本を読んでも、自身を取り囲む人間関係から決まるなんて書いてあるので、情報化社会として開けた現代で、死ぬまで同じ人間関係なんて家族しかないんです(大概の人は)。何が同一性だ!なんて思いませんか?もはやアイデンティティっていうのは、ペルソナやキャラ付けとほとんど変わらない言葉になってしまったのだと思います。
なのでここでは、僕が言った「孤独に自己と向き合うことで見い出す、自分自身の社会の役に立たない部分」を「大便的自己」として、「アイデンティティ」とは違うナニカとして話を続けます。(社会に消費されたからうんちになったってのと、自分が本当に思ってくれることの代弁をかけてます。ただこうすると二元論みたいでなんか嫌ですね。)
 
「大便的自己」なんですけど、元々消費されたものでもないので便宜上としてそんな単語を使っています。
 
さて、僕も昔はそれなりに友人がいました。
彼らと共に過ごした時間のあと、一人になって色々考えて、なにか思うところもありました。しかし友人がいなくなり孤独になった今、よくよく考えてみるとあの時考えていた自分というのは、環境に合わせたところってのが大きかったんです。なので、これはまた「社会に孤独に立ち向かう自分」というのを考えなければならないなと、思いついたのが約1年前です。
結局未だにそれがなんなのか、わかっていません。一生わからないかもしれないです。でも、それについて考えることは決して無駄な行為として片付けてはいけない。
 
人生いろんな挫折があると思います。僕のような誇りもなくプライドが高いだけの人間は、挫折すると、なんかもう誰とも関わりたくなくなり、孤独に殻に籠ってしまいます。そして、僕ほど拗らせてなくても、何かやらかした時に誰とも関わりたくなくなることなんて、どんな人間にもあることだと思います。その時、頼れるのは(すがれるのは?)自分しかいなくて、その自分について明確とした像ってのを抱いていなかった時、途方に暮れてしまい、自分の器が分からないことから、自分を過大評価するのはなんとなく恐ろしいから、とりあえず自分をダメな存在にしておこうとしてしまいます。
それがいわゆる鬱病の始まりですね。
いつか来る災難に備えて、孤独に立ち向かい、自分の土台をきちんと建設しておくことは、決して無駄な行為にならないと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まぁ、生きててずっと周りに友達がいるような人望のある連中にとったら、僕の今の発言はルサンチマンでしかないですし、僕の方もそう思われてもいいと思ってるあたり、ただのおせっかいでしかないのと、「そんなの人の勝手でしょ!!!」と言えてしまう。
実学と思想の対立のようですね。
思想の部分を疎かにするのは、実学にも影響を与えてしまうと思いますけれど。
要領のいいみなさんは、コミュニケーションをとりながら自分と向かい合ってみてください。
僕は頭が悪いのでそれができません!
 
 
 
 
 
そして再び大学生という存在についての考察です。
 
 
大学生である以前に僕らは「人」という生き物なので、群れて集団生活をするというのはあまりにも当然で健全な生き方です。僕みたいにずっと一人な奴のほうがおかしい。
 
ですが、みんな少し人と関わる時間を持ちすぎなんじゃないかなと思います。
講義中でも昼休みでも一人でいるときも、みんなLINEを使ってだれかとのコミュニケーションを図っています。そんなに人と話すことがあるのか・・・とも思いますけど。
もう少し自分だけに使える時間を増やしたほうがいいと思います。
映画を見たり、本を見たり、趣味に時間を使ったりと使い方は何でもいいと思いますけれど、あまりにみんな他人に使う時間が多すぎるような気がします。
 
あまりにも他人との連絡が簡単になりましたが、そのことが他人との距離を狭くしたのか、遠くしたのか、不自然な狭まり方をしたのかは僕にはわかりません。
まぁ僕にはそれを検証するだけの経験も友人もいませんけれど。
 
周りの環境が素材の大部分を占めて作られるアイデンティティってのが現代人の特徴であるように思います、確固たる個人は嫌われ、環境に合わせた人間とならなければならないという強迫観念じみた意識を僕は大学生の彼の発言から感じました。
人間らしさに欠いていると思います。
役割としての個人が遂行されすぎている。
もう少しやりたいように生きてほしいところです。
 
個人単位としてみんな悪い人間ではないと思いますが、こんな人間関係の作り方が当然とされてしまったら、人間としての役割(労働)が大きく揺れ動いてしまったとき。
大混乱に見舞われる気がしてなりません。
 
人工知能人工知能を作ることができてしまうようになった未来、人間の役割が今のまま持続されるとは思いません。
 
 
忠告でも何でもないですが、みなさんもう少し自分を大切にしてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
残りの衝撃発言については、まて次回。