溶存する

僕が普段感じたことや考えたことを、つたない日本語を駆使して必死に伝えようとするため、自分自身に残しておくために文章を書いています。

ビジネス用語のカタカナ表記について

コンプライアンス

ポリコレ

 

他にも色々あるけれど、皆さんこういったカタカナ表記は日常に溢れかえっていると思います。以前の横文字への横槍という記事でも書きましたが、これがどうも僕には気に入らないのでもう一度記事にしようと思いました。

 

 

 

 

カタカナ表記といってもそれはアメリカ、チョコレート、ゲームなどと色々ありますが、昨今意識のお高い人々の間で用いられているビジネス用語としてのカタカナ表記は先に挙げた例とは性質の違うカタカナ表記を行なっています。

 

アメリカなどといった国のカタカナ表記は、固有名詞です。こうしたものはシニフィアンとして相対的に成り立っていない、ようするに他のシニフィアンを用いてシニフィエを与えることができない単語です。簡単に言いますと、服というものを辞書で引いてみると他の言葉を用いて、<それ>が何であるかを説明が出来ます。この場合の定義はpは<それ>であるという、p⊂<それ>ではなく、p=<それ>というきちんとした定義付けがなされています。一方で固有名詞であるアメリカなどといったものは、どうしても先に述べた後者での表し方ができません。記号としての意味であり、他の言葉を用いて表してしまうと、p=<それ>ができないからです。〜に位置する国の一つで、〜がどうで、〜がなにで、大統領は〜で、政治としては〜。というp⊂<それ>でしか表せないのです。カタカナ表記でない米国というのも米国=アメリカであり、やはりこれは記号としての意味しか持っていません。

 

一方でチョコレートやゲームというものは(ゲームは娯楽一般を指す多元的な意味を孕んでいるので、定義付けを行うのは非常に長くなってしまいますが。)、定義付けを行うことができます。カカオ豆をどうたらこうたらしたお菓子とできますが、消費されるものであるそれらは購買に直結するイメージがあります。貯古齢糖と書かれたものとチョコレートと書かれたもの、どちらを購買したいかについては言及するまでもなく明らかです。消費するという段階においてそれらはイメージ、記号へと昇華されてしまっているので、これらについてカタカナ表記をやめろというのは極右的な意見です。

 

 

 

性質は違えど、アメリカ、チョコレートといったカタカナ表記の単語は記号的なものであって言葉とは別個のものとして扱うことがここで可能になっています。要はその記号自身は大した意味を持っていないイメージとしての事物です。

 

 

 

さて、ここからが本題です。「コンプライアンス」などという単語は一応「法律の遵守」という日本語が当てられていますが、これは言葉ではなく文章です。シニフィアンとしてのコンプライアンスは、母国語の次元においてシニフィエとして言葉で繋がっていないのです。コンプライアンスという名詞に対して、名詞としての訳語を当てる努力が全く見られないことに僕は違和感を感じているのです。コンプライアンスというものは企業の法律の遵守のことだ。という定義付けはフィロソフィーというものは人の行う知的営みだと訳してるようなものなのです。日本に西洋文化流入してきた時代では、外国語に対してその意味を噛み砕いてきちんとした日本語が(造語なので当時においてきちんとしたと表してしまうのは非常に悪い文章ですが)当てられていたのです。フィロソフィーに対しては哲学と。(もちろんこの訳し方に対して批判をする人もいますけれど、作られたという事実は評価すべきです。フィロソフィーは哲学、哲学は〜と段階を追ってきちんとした定義付けができているから。)

 

 

 

 

僕もこれ今日突然思い付いただけなので上手いこと言えないし、一部論理がぐちゃぐちゃして明晰でないところもありますが。何となしに伝わってればと願っております。

 

 

 

カタカナ表記を造語としてでも母国語の名詞を当てないことは、ある種自国の文化が他国のそれに押し負けてしまったようにも感じますし、意味内容が記号として孕むことを母国語を通り越して行われていることから分かりにくさが生じているのだと思います。

 

もちろん常日頃そうしたビジネスカタカナ表記用語を使っている人たちにとって、それらはもはや母国語に近いような記号的表現に成っているとは思いますが、どこの国の法律に遵守しているのかは明らかなので、きちんとこの国言葉で記号的な表現を拵えて欲しいと切に願ってしまいます。

 

 

 

 

これもそんなことしてる時間は誰にもないと言われてしまうと何も言いかえせないです。やはり現代は情報が氾濫としていて、忙しいですね。僕みたいなそういう細かいことに神経を使ってしまう人間にとっては、なんとも釈然としない世の中です。

 

まぁ僕もビジネスという外来語が日常の傍にあって、このカタカナ表記を使うことをもはや記号的表現として扱ってしまっているのですけれども・・・

受動的取捨選択の時代

気付けば今年も終わりそうで、2017年ってなんか数字が気持ち悪いなと正月に友人宅でデリヘルを呼ぶか否かで悩みながら話していたことを思い出します。2018年に突入してしまえば、どこかその偶数のスッキリと心に入ってくるのかま、オッドナンバーな現在に多少の寂しさや懐かしさを感じてしまいそうではありますけれども。

 

西暦という数字は、もちろん僕たちが能動的に決めた数字ではありません。キリスト教によって死ぬまで、ある程度の文化圏にいる限りにおいては常に傍受されてしまう情報です。そこには善悪も快不快も、分断された二項対立が立ち入る隙もないくらいには僕らの当たり前として顕現されています。一方でこの国には元号がありますが、そちらは半世紀に一度くらいには変わってしまいますので、当たり前の領域にまでは事実として側にはいません。行政手続きやなんやらをあまり経験しない子供達にとって、自分の生まれた元号は毎回調べるものであっても特に疑問は持ちません。もちろん大人の私たちにとってそれは確たる常識ではあります。

 

西暦と元号の当たり前という認識の違いは、自身がその情報をどう取り扱っているかに向かって行くものだと考えています。そして、ユビキタス社会な現状がそう感じさせていないのもまた一つの問題です。

 

情報ソースというものについて、過去では新聞やテレビといった、そういった与えられる媒体から常に手に入れていました。僕はそのような時代では15年ほどしか過ごしていませんでしたが、現在と過去を比べてみると圧倒的に現在は利便性に溢れています。天気一つとっても、ズームインで見た天気予報を1日1週間頭に入れておく必要はなく、スマートフォンでその場でパッと調べられます。具体例を挙げているとキリがないのですが、こうした不変の事実(天気やある程度のニュース)においてはスマートフォンの利便性は我々の生活の当たり前へとなっています。一方で、何を調べて何を見て何を考えるかという点については、我々はあまりにも突き放されてるように感じます。こんなことは小学生でも重々承知でしょうけれど、インターネットによる情報収集からの自身の望んだ世界の形成を意識的に改善して行くのは、非常に難しいです。そしてそれを悪としてしまうのもどこかお門違いのような感じもします。インターネットだけの情報で生きるなというのは、それはもちろん誤った情報に踊らされるなという意味を孕んでいるんでしょうが、僕はそれに対してそこまでネガティブなイマージュを持てません。個々人の形成したいマクロな世界の中で生きていくほうがよっぽど健康的だと思います。情報過多のこの世界で、真偽を見極め、世界という大局の元で日々を生き抜くのは非常に困難な生き方であるように感じます。

 

だからといって、自身の世界が全体であるという意識を無意識的にでも押し出してはならないのです。それは他方で望まれなかった世界でもありますから。そして受け取る我々もそういった情報はなるべくシャットアウトして生きた方がよっぽど健全です。

 

やれ最近では、インスタ映えやら、いいね!のための承認欲求やらが謳われておりますけれど、他者性の中に自己を見つめてしまうから、自身の中に似たような欲求があり、それを上手いこと表象できないからこそSNSにおいて他者を叩いてしまうように感じられます。

 

情報の発信も受信も、分別を付けてきちんと行い、最適化された世界、コミュニティの中で生きてゆくことを世界中で望まれてるようにも感じます。ナショナリズムなんかがその最たる例です。グローバル化の社会だ!なんて言いながらも、経済的な取引の規模が広がっただけで、経済活動をしょっぴいた一個人としての生の中には世界は我々人間にはまだあまりにも広すぎるのです。目下スペインでも国境が増えようとしています。

 

冒頭のデリヘルを呼ぼうか悩んでいたなんて極小コミュニティの話題であって、それを面白いと思って読んでいた人間なんて僕の周囲の人間しかいないでしょう。我々はそうした狭い世界の中で、自身を管理できる世界の中で、望んだ世界を形成することのできるこのデバイスとともに明るい明日を切り開いていくことが一番の小さな市民である我々の平和に繋がるのだと思います。

 

 

 

もちろんそうは言ってられない世界も多数あるかと思いますが、そんなものはトップクラスの政治家や資産家にしか当てはまらないことです。そういった人たちを叩くのは本当に愚かなことです。彼らは僕らの知らない世界で、同時多発的な心理的テロリズムを常に対処しなければならないところで生きているのだから。無関心でいろとは言いませんが、「大変ですね」くらいの心情で接するくらいがちょうどいいです。それでも気に入らないことがあるのならば、あなた自身がその世界に飛び込んでいて欲しいです。これもまた僕の小さな世界から、寛容のない人間への自身の寛容のなさですね。閉じたコミュニティは小さな火種を撒きますが、何一つ害を撒き散らかさないのであれば、僕はそうして小競り合いを続けながら、狭小なムラで僕とその大切な人々の幸せを願いながら生きて生きます。

サルトルは陽キャ

実存主義と聞いて大概の人は「サルトル?」と答えると予想されるのですけれど、サルトルは陽キャだという話をしようと思います。

 

 

まぁ簡単に言ったら

 

「人生に一般な意味なんてないしみんな人生で作り上げてこうな✋」って感じなんです。(即自だの対自だのは話すと長くなるので嫌です。)

 

 

 

 

いやいやいや???

ガチ陽キャやんw

 

 

 

やばすぎませんか?

生きる意味についてうじうじ悩んだって疎外されてしんどいよってまぁそりゃそうやって話なんですけれど、それに対して

 

やっちゃいましょか?w

みたいな対応、やばすぎる。

 

無理じゃない?????

 

 

まぁ言わんとすることは分かるんですけどね、彼の嘔吐とか読んでみたらこの結論に至ったのも彼にも色々あったと推測できますけれど、この結論はなんか、生き急ぎすぎてる。

 

もっとニヒリズムなのがいいよぉ、、、

って陰キャクソダサボーイ(コーナーで差をつけられて走り方を笑われろ)は思うわけなんですよ。

 

 

 

そんな僕ら陰キャにおすすめの実存主義者は〜〜〜〜?????

実存主義者は〜〜〜〜〜〜?????

実存主義者は〜〜〜〜〜?????????????

 

 

 

 

 

ニーチェですね。

ニーチェといえば神は死んだだの、永劫回帰なんかで皆さんご存知だと思うのですが、力への意思というより、超人という概念を作り出した過程がもうガチ陰キャですごく親近感湧くんですよね。

 

 

哲学思想なんて現実逃避にすぎない(心当たりのある人のが多いでしょ)

人生楽しめるのは幼児の精神(人間はこれを目指すべきw)がいるよ(この発想マジ陰キャ)

疲れた精神は活力を求めるために生きる目標だの意味を求める(あぁ、、、もう、、、)

 

 

 

 

これ

 

これ

 

 

これ

 

 

陰キャが陽キャにあいつらは未熟だのガキだのアホだの言ってるのとめっちゃかぶるやーんwwwwwww

 

 

 

 

 

如何だったでしょうか、かれくさによる超テキトーざっくり哲学解説講座でした。

現代思想家以外で知りたい哲学者思想家がいれば一報入れてくれるとありがたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次はオルテガでも話そうかしら

 

 

ナチュラリズムが見失う理性

社会に生きる上で我々はどうしても本能に制約される。生存権、その他あらゆる権利の主張の多くは本能を基にしていると言える。その上で複雑難解化した社会には他に様々な理性によって加えられた制約が存在している。もっともここでは理性とは本能の対極に置くのではなく、知性によって産み出されたもののに対する本能に準じたものとする。例えば、人間は知性によって大量破壊兵器を作り出し、本能がその危険性を察知し、理性としてそれを制限する。本能が制約できる範囲はあくまでも所有権や生存権といった基本的な生命維持のための権利である(ここで所有権を取り出したのは僕の考察の甘さがあるが、深く掘り下げずにそういうことにしておく。)。理性はその基本的な権利に絡みついた、複雑な様々な文明の副産物を制約するための道具である。その複雑性ゆえに、我々はもはや本能だけで制御することができないからだ。先に取り出したように「そういうことにしておく。」と言ったほどに、半ば定言命法の如く制約するのだ。

 

この理性であるが、定言命法の如く存在しているため、時にその信頼が大きく揺らぐことがある。それは漠然と迫った危機の瞬間である。人は特に不可解な行動を取るが、その不可解の原因は我々がもはや本能を無意識化に抑え込み、理性によって生かされているからである。自身の直接的な命の危機ではないのにも関わらず、人は轢き逃げをする。理性の暴走である。人を救助しなければならない、社会的制約を受容することができない。本能によってもたらされる基本的な権利を無視しているようにも思われるが、基本的な権利の主張のために複雑化した諸問題を取り払うために瞬間的に理性は暴走する。理性の暴走には各人に対して差があることは衆目によって明らかなことである。しかし、誤差の範囲として区別するには、あまりにも人間は強大な理性の制限を受けているために、人類存続の危機に直結しかねないのである。

 

さて、そんな危機を我々は言語化せずとも、スキーマの断片として日々感じ取っている。他国に対する不信感(ここで他国という言葉を使う前提をも書きたかったが考察不足)や危機感。それは本能的な生命維持の権利にまで訴えかけ、自衛のために人々は、自身のための行政に対して防御を求める。それがいかなる形で顕現するかは、愛国主義であったり、国粋主義だったりするわけであるが、そこに対する差は本稿では取り扱わない。しかし、一国の行き先を本能に委ねるわけにはいかないので、人々は理性を通してこれを行おうとする。冒頭で触れたように理性とは複雑化された諸課題を処理するための本能の道具であるので、先に述べた理性の暴走がいつ起こってもなんら疑問に思うことはないのだ。

 

北の国では自衛のためか、それともまた別の本能の基づいた権利のためにか連日のように理性の暴走が見られる。一国という制限を失うのは非常に難しいことであるが、我々は時代と共に理性との付き合い方をもう少し上手いことした方が良さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁアメリカとソ連が作り出した国なんですけどね、のーすこりあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘い考察もあったので、そのうち追記します。

進歩主義の終わり

更新のために短い記事を書きました。

次回の記事は、読んだ小説の話でもしたいな。

 

 

 

 

 

テレビのニュースなんかを見ていると、頻繁に聞く文句があった。その文句に対して、初めて聞いた時も、そして今現在もどこか世界の現状を端的に表しているんじゃないかと思わされてしまう。もちろんテレビのコメンテーターなんて、本当に言いたいことは言えないだろうから、衆愚に向けた言葉なのか、それとも何かの圧力が掛かってるのかは僕の知るところではないが、今回はその文句について取り上げてみようと思う。

 

その文句について、具体的にどんな言葉を用いてたかは覚えていないが、要約すると「アメリカが自国のことで手一杯になってほしくない。」みたいなそんな言葉である。もちろん、学の足りない僕は日本のニュースしか見ていないので、戦後アメリカの属国として存在し続けたこの国独自の言葉なのか、それとも他の国々でも同じように取り上げてるかはわからない。けれども、アメリカがそうしてることに対して、先ほどの文句を取り出したのは、あまりにもこの国の危機感の無さ、いや、もしかしたら意識的か無意識的かはわからないけれど、危機感を無視しようと努めてる雰囲気を僕は感じたのだ。

 

ただ、これからの話は僕がよくするようなグローバル化なんて嘘だよなんて話に繋がるので割愛する。

 

ただ生きてるだけで、GHQに統治されていたこの国、戦後70年経った今も敗戦国であり続けていることを思い出され、どこか憂鬱になっただけ、そんな話である。

20歳の等身が成人式についてどう思うか

こんばんは

かれくさです、名前だけでも覚えて帰っていただけたらなと思っております。

 

 

成人、20歳という年齢だけであるなら半年以上前に迎えていたのですが、成人式というイニシエーション(広義の意味で)があったため、そこで思ったことをつらつらと書こうと思っています。

 

 

 

 

 

あろうことか成人式の記事を書くと言ったにも関わらず、僕は成人式に行ってませんでした。特に理由もありません。寝坊だの友達が行かないだのそんな、平々凡々な理由です。成人式前日に、所属していたコミュニティから嬉しいことにお誘いをいただき、朝からお酒を飲み、翌日成人式だと意識していたので終電には帰ろうと、終電までお酒を飲んでいて、家に帰って家族と少し話してから寝ました。起きた時間は午前7時、二日酔いはありませんでしたが、寒いしなんかめんどくせえし、いっかなー。と思ってしまい、上記の通り成人式には出ませんでした。

 

成人式が終わった後、友人と会い、どうだったかと聞いていましたが、旧友との再会を果たす場として以外の価値が式には無いといったようなことを言っていました。もちろん、感性が豊かな人であれば共同体のイニシエーションがどうたろこうたろと考える人もいるのでしょうが、一般的な感性ではそこまで考えることもないし、考えたとしても人に伝えるようなことではないと判断したのでしょう。

 

出てない僕がいうのも御門違いなところがあるんですが、それってとても、寂しいことだと思いますし、人の限界のようなものを感じました。グローバル社会だの地域創生だの、相反する二つの理念が混在し(画一された理念が存在している状態などありえないし、あってはならないと思ってますけれどと。)、それがよりはっきり具体的に目で見てわかる現代社会においても、成人式に出てもムラ社会的な付き合いしか露わにならない。一部の集団が牽引する社会、これはもはや人間の性質、限界であるのではとひしひしと周囲の声から伝わり、落胆することもなく一人部屋で考えていました。

 

貴族と大衆が、社会の大きさごとに分けられていて、真なる平等などやはり我々人間には存在せず、妥協を重ねた平和を目指すのが最も現実的だと、そりゃそうだわといった感じで思考の後に笑っていました。

 

ナショナリズムの台頭、国境線の増加、ここ二、三年でたくさんの大きな動きが見られています。テレビのニュースでは今年は激動の年になるだの言ってますが、そんなものは今後一切来ることなく、緩やかに世界全体が自分の国、自分のことで手一杯になるのにあと30年もかかることもなくなると思います。(憶測でしかありませんし、何の根拠もありませんが。)

 

ただ、それをネガティブなことと受け止めることなく、人はまだまだ内輪的には大きな力を秘めていると信じて、専門と総合をより一層できるような未来になればいいですね。

 

 

 

さて、成人式の後に友人とバイオハザードザファイナル?みたいな映画のようなものを見たんですが。。。

 

 

若干のネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

なんやこれいったい^^;

あんなんtウイルスで語れるバケモンちゃうやろ

スパイはまぁそりゃお前やろ

あ、はい

えぇ、、、

あっ、ふーん

 

 

 

って感想の映画です、バイオハザードという土台が無ければ-4点くらいの出来な映画でした。

新年早々見た映画があれだと思うと、なんだかやるせなくなっちゃいますね。

 

それでは、今年もよろしくお願いします。

センター試験前のメンタル

こんばんは。

年末をみなさんどのようにお過ごしでしょうか?

僕はやることが一気に襲ってきて毎日ずっと寝てます、終わらないです。

 

 

いよいよ2016年も終わりに近づき、受験生にとっては僕のトラウマであるセンター試験が近づいてきましたね、頑張って下さい。

 

センター試験前の僕のメンタルがいろいろと今考えると面白かったのでそれについていろいろと書いてみようと思います。

浪人生活は常にメンタルはクソでしたが、それなりの成績だったので全国2000位くらいだった時は、頭も悪く勉強の苦手だった僕からしたらわーい^^って感じで、楽しくはないけどそれなりにそれなりだな・・・^^;って感じで生きてました。

 

 

しかし、センター試験が近づくにつれて去年度のことを思い出して幼児退化していきました。毎日人妻の母乳を吸い、ママ〜;;と街で駆け回る、完全に職質コースの人間ですね、怪しいセラピーだの勉強会だの宗教だのの勧誘も五万と受けてきました。どれにも行ってませんが。

 

センタープレはまぁ、普段よりは良くなかったですけれども、”まぁまぁ”な成績で一度は若干の落ち着きを取り戻したのですが(数学で9割切って吐きそうになったことだけ覚えてるあとなんかの科目で初めて満点を取ってた)、やはりメンタル弱者、四日経つともうどうしようもなくなってしまいました。毎日号泣し、暗記科目を音読して、ニコニコ動画でホモビデオをタグ検索して夜中に爆笑する。完全にヤバい人ですね。センター前日も一睡もできず、ママ〜;;ってお家で叫んでました。あの頃の録音やら録画やらが残ってないおかげで、僕はこうして今生きていられるわけですが・・・

 

まぁ、英語筆記でやらかしたり、数学でやらかしたりとなんだかハチャメチャな成績を取ってしまい、予備校の担任の先生から「これマジ?模試に比べて本番貧弱すぎんだろ・・・」と言われたり。なんだか全てがどうでもよくなっていました。

 

あとはなんかメンタルって外見に出るもんですね、同じ会場で受けていた知り合いに「あいつは本番中ずっとフードをかぶって受験していた」というでたらめを高校で流されてたのを大学受験後耳にして大爆笑しました。

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もちろん二次試験の勉強なんかもしていません、受けた大学の赤本一度も開きませんでした。

 

モンハンクロスがなんか12月くらいに出てましたよね?

それを買いに行ってハンターランクを上げてました。

 

 

モンスターハンタークロス  - 3DS

モンスターハンタークロス - 3DS

 

 

 

昼過ぎに起きて、川に行き、釣りしてるおっさんと会話して、ランニングしてる人々を横目で追いながら、飛び立つ鳥を見て「寒そ〜^^」とぼっそとつぶやき、近くにいる鳩を思っきし脅かしに行って一通り外で遊んだ後、お家に帰ってモンハンクロスをして、ニコニコ動画を見て、寝る。

 

 

 

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとそうして過ごしてました、どこも大学受からなかったらこうして一生暮らそうと考えてました。

 

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まぁそんな僕でも何個か大学受かりましたし、今もなんとか生きてられているので、この記事を読んでくれている大学受験生がいれば、僕を下に見て心の余裕にしてくれればなぁ・・・なんて、そんな奴はこんな記事見ないよなぁ・・・

 

 

 

モンハンダブルクロスが3月終盤に発売なので、僕と同じようなことは今年の受験生はできないんですね、かわいそう。ポケモンでもしてなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はムーンです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ、大学受験なんて本人以外からしたらただの人生の通過点でしかないので、あんまり気負いすぎず(難しいけど)、頑張ってくださいね。