溶存する

僕が普段感じたことや考えたことを、つたない日本語を駆使して必死に伝えようとするため、自分自身に残しておくために文章を書いています。

桜が嫌いだ

僕は桜があまり好きではない。

 

もう散り散りになってしまったそれは樹木に咲く集合体としての連結した桜のイコンを失ってしまい、連結無くした死に絶えアスファルトに横たわる遺棄されたモノに見えて仕方がない。川に落ちた桜の花びらなんてものは、信心さえも無くしてしまい、伝統だからという理由で行われ続ける未来のガンジス川のようにしか僕には見えない。それがどこか後期資本主義に雑多にひと塊りにされたものとして整備された河川敷と桜並木とを見て少し鬱屈する。

 

桜とともに新年度は来てしまうが、僕にとっての新年度はいつも苦い思いが募るばかりで、今現在の未来から見た過去の現在の自分を笑うことが出来ても、その時点での僕の思いは、それは本当に良い思いがなかった。

入学式というものを何度か経験したが、その全てが自分の望まない結果を強制的に受け入れさせようとする儀式のように思えて仕方がなかった。もちろん完璧な結果ばかりで生きてきた人なんていないと思う。みんなどこかで区切りをつけたり、新しさに順応しようと努力している。そうするのが正解だとは思うけれど、そういうことができない時期もある。そうするとなかなか人間社会の持続するコミュニティの中での立ち振る舞いの全てが困難になってくる。大学生の僕だ。思えば中高時代も別に対してそうした努力をしてきたわけではなかった、たまたま僕のことを面白がって仲良くなった連中のスクールカーストが高めだったために、うまくやっていったが、そうした全体的なコミュニティを欠いた大学というコミュニティの中で僕と話す人間は大学院生と教授ばかりで、同年代の学生との交流が皆無に等しい。そういったコミュニティにおいて周りの情報はひどく入ってこない、僕に世話をかけるわけでもない、正直扱いに困るコミュニティだ。悪く思ってはいないけれども、良く思ってる節もあるが、最高!と答えることは難しい。誰しもが自身のコミュニティにそのような感情を抱いていると思うが、僕の場合はあまりにも同期との交流がなく特異性があるとだけ記しておく。

話はそれたけれど、とにかく未来から見つめている今でさえ、笑い飛ばすことはできても納得のいくものとして四月の桜の景色映る世界を快く受け入れることができずにいる。そうした景色とリンクした感情というものは残っていくものだと思う。それは別に景色に限定した話でなく、なんらかの五感と感情は現在と過去の中でリンクする傾向にはあると思う。未来になってしまうとまた違う思いを描くことができるが、その時点での現在と今にとっての過去の中で自身がそうした感情を抱いていたというのは紛れも無い事実で、記憶の改竄を行なってしまうようなことも困難だ。人並みに愛を知った人々にとって感傷的な気分の際に聞いた曲というものはそうした曲として自己のうちに昇華されてしまう。曲に限定した話ではないが、作者の意図を超えて自身の経験のうちに作品が捻じ曲がってしまう。インスタントに作品と触れる機会が多く、簡易的な接続を可能にし、生活と連結してしまった現代においてはより顕著だろう。評論なんてものも結局は読み取ったことが自身のうちで知らぬ間に捻じ曲がってしまうなんてことは往往にしてよくあることだ。

そんな訳で僕にとってのさくら咲く季節なんてものはどこか苦い思いばかりの誰からも評論されることのない、メディアによるおめでたいイメージとは正反対のものとして、より目立って僕の脳内で顕現し続けている。桜前線と共に近寄る過去の失敗の自身への侵犯としてあの桃色の花を咲かす樹木は還元されてしまった。

 

桜の花びらより葉桜の方が好きなのは、そうした失敗と倦怠とが時間と共に緩やかになった自身の感情の揺れと同様に。

 

だからといって決して凛と咲く桜に対して汚いと思うことはあまりない。綺麗だと思う。電車の車窓から見えるそれなんて、もう咲いたのか、おめでたいなとさえ思ってしまうこともある。それは立ち止まって見つめるそれと違って、瞬間的なイメージが切り替わり続ける車窓からの景色だからだ。

 

立ち止まって見つめる桜を視界における世界の連結部分とするならば、車窓から見える桜は連結そのものだろう。

 

僕らの日常はそうした瞬間瞬間のイメージの連結で創造されている。そのイメージについてなんであるかというのはここで問う気はないが、そうしたインスタントな連結はあまりにも早く、ジョイント部分を考える隙を与えさせない。僕らはそうした連結部分を立ち止まって考えようとするとあまりにも気疲れしてしまうのは、人生における成功体験なんてものが欲望のモンスターによって常に卑下され続けているからだ。能天気に生きろなんてことは言っていない。ただやはり立ち止まって考えるのは精神的に良くないように思える。なんらかの異常が起きない限り心臓は常に動き続けている。身体の動きと同様に、精神の動きもそのようにした方が良いのかもしれない。そんなことに正誤判断は持ち込めないけれど、考える価値はあるのではないだろうか。

 

流行りを常に取り入れよう。ダセえ服だけは着ないようにしよう、その方がきっと楽だから。